甲斐の国城主であった、武田兵部少輔信賢が室町幕府(足利氏)の命により、幕府に反旗を翻した一色左京太夫を討ち破った。
その功績により、芸州沼田郡山本の神山(武田山)の嶮に銀山城を築き城主となった。当時の戦国武将は常に僧侶を伴い、敵と和睦を結ぶ際に僧侶を使者とし交渉に当たらせていたのである。
武田信賢も甲州より芸州に転封された際に仏護庵、松陰坊、勢隆坊、十歳坊、富樫道全など十二人の僧侶と共に芸州に移り、十二人の僧は武田山の東麓の龍原に居を構えた。(現在も地名が残っている)時を経て高田郡吉田の毛利元就富強となり武田滅亡に及ぶや、龍原の十二坊の僧も所縁にまかせて散在したのである。
十二坊筆頭の松陰坊永頓(西楽寺初代)は武田滅亡するや草津に移住し隠棲した。(古文書にはこの隠棲地を松陰坊屋敷と名付けている)この松陰坊屋敷が西楽寺の起源である。
毛利氏が陶晴賢を厳島の合戦で打ち破り、中国八カ国を手中に収めるや散在していた十二坊を呼び戻し己斐の松原を寺地と定めた、松陰坊永頓も、これに従い草津松陰坊屋敷をそのまま残して己斐に移転をした。関ヶ原の合戦にて豊臣方に味方して敗れた毛利氏は山口に転封さ れ、福島正則が広島城主となるに及び、西方の白州で葦の河原であった現在の寺町に十二坊を移して、西方の合戦の時の陣屋としたのである。
松陰坊永頓も共に移転をしたが、他坊との論争があり、武田信賢時代の古巣である沼田郡の長束に道場を建て移住した。(現在の長束の蓮光寺)その時、永頓は長男の嗣法に長束道場を継がせ、隠居所であった草津の松陰坊屋敷に第二子、信了(元亀元年、1570年生西楽寺第二代)と共に隠居したのである。時に慶長十六年(1611年)であった。 爾来、西楽寺は第三代の祐順、第四代是教と続き今日に至ったのである。
武田信賢も甲州より芸州に転封された際に仏護庵、松陰坊、勢隆坊、十歳坊、富樫道全など十二人の僧侶と共に芸州に移り、十二人の僧は武田山の東麓の龍原に居を構えた。(現在も地名が残っている)時を経て高田郡吉田の毛利元就富強となり武田滅亡に及ぶや、龍原の十二坊の僧も所縁にまかせて散在したのである。
十二坊筆頭の松陰坊永頓(西楽寺初代)は武田滅亡するや草津に移住し隠棲した。(古文書にはこの隠棲地を松陰坊屋敷と名付けている)この松陰坊屋敷が西楽寺の起源である。
毛利氏が陶晴賢を厳島の合戦で打ち破り、中国八カ国を手中に収めるや散在していた十二坊を呼び戻し己斐の松原を寺地と定めた、松陰坊永頓も、これに従い草津松陰坊屋敷をそのまま残して己斐に移転をした。関ヶ原の合戦にて豊臣方に味方して敗れた毛利氏は山口に転封さ れ、福島正則が広島城主となるに及び、西方の白州で葦の河原であった現在の寺町に十二坊を移して、西方の合戦の時の陣屋としたのである。
松陰坊永頓も共に移転をしたが、他坊との論争があり、武田信賢時代の古巣である沼田郡の長束に道場を建て移住した。(現在の長束の蓮光寺)その時、永頓は長男の嗣法に長束道場を継がせ、隠居所であった草津の松陰坊屋敷に第二子、信了(元亀元年、1570年生西楽寺第二代)と共に隠居したのである。時に慶長十六年(1611年)であった。 爾来、西楽寺は第三代の祐順、第四代是教と続き今日に至ったのである。